古代東国仏教の中心寺院〜下野薬師寺 須田勉

 下野薬師寺って凄い。本当に凄い。さすが、下野薬師寺!でも、伽藍は現在まで残っていないのだ。
 ここまで徹底的に調査対象をもちあげる冊子もめずらしい。実際に凄かったが、東大寺などと違って現代への連続性が不足しているので、積極的に広報説明しなければならなかったという事なのであろう。

 下野薬師寺は関東8国に陸奥と出羽をくわえた10国を担当する東方の宗教政策の要ともいえる寺院だった。
 発掘調査によって、その壮大な規模と異例な建物配置が明らかにされていく。

 この寺の発展には歴史の教科書にも出てくる鑑真も関係していて、国家による仏教統制に大きな役割を果たしていた。あるいは、名前の聞いたことのある道鏡が配流されて失意の内に二年で死んだ先でもある。
 そういう知っている部分とのリンクによって関心がかき立てられるし、覚えやすくなる。さらに遺跡を学ぶシリーズごとのリンクを広げていけば知識は広まり定着して深まる。
 そのはずなんだが、なかなかね……とりあえず著者の下野薬師寺に対する熱意は覚えておこう。

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古代東国仏教の中心寺院・下野薬師寺 (シリーズ「遺跡を学ぶ」082)
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東国大豪族の威勢〜大室古墳群[群馬] 前原豊

 4つあるけど全部二子古墳!
 それぞれがペアになっているとすれば、別に問題はないが、小二子古墳は昔は小古墳としか呼ばれていなかったらしい……深入りしてもしょうがない?

 群馬県では畿内での古墳造営が下火になっても多くの古墳が造られつづけていた。それも単純に地方の時代遅れを示しているわけではなく、朝鮮の文化を取り入れながらのものであったことが発掘調査によって明らかになっている。
 鳥や蛙を狙う蛇などの飾りをともなった埴輪などユニークでおもしろいものがある。埴輪が盗まれていた話は笑えないが……今の管理状況でこのくらいの被害で済んでいることは凄いことなのかもしれない。
 できれば、今後はもっと平和に遺跡が守られてほしいものだ。

 古墳が造られ続けていたと言っても、労働力を無尽蔵に投入できたわけではなくて、時代を下るほど地形を利用することでの省力化が進んでいる傾向がみられる。
 労働者を納得させにくくなったとすれば、下層の人々が力をつけてきたことになるが、限られた労働力で可能なかぎり大きな古墳が造りたかっただけかもしれない。
 なかなか想像力をかきたてられる問題である。

 ところでタイトルに[群馬]とあるのは、他にも大室古墳群があるのか?検索したら長野市にもあった!

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東国大豪族の威勢・大室古墳群 群馬 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
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藤原仲麻呂がつくった壮麗な国庁〜近江国府 平井美典

 規模が大きすぎて全容の把握が大変。瀬田川の東に大きく広がる近江国庁は、大量の建物が礎石瓦葺で建てられた野心的な施設群だった。
 現在も断続的に続く発掘調査によって現れる国府の姿は、かつて予想されていたように都のミニチュア版ではなく、独特の形式をもっていたが、近江国府はさらに独特で唐に起源があるのではないかと著者は指摘する。

 さすがに出る杭は打たれるというか、道鏡との政治闘争の果てに仲麻呂は乱を起こすことになって滅ぼされる。
 追討軍が二度までも先回りして、仲麻呂に絶望を突きつけていることが記憶に残った。道の集まる場所は迂回もされやすい?湖の上を移動することは考えられなかったのかなぁ。

 発掘に関するエピソードで、著者が重機をつかって表土を取り除いていたら県庁に不届きものがいると電話が掛かったというのが微笑ましかった。告知不足、かな?
 当初の宅地造成で遺跡が破壊されまくっていた状況からの変化が喜ばしい。いや、最初から憂えている人は憂えていたか。

関連書評
律令体制を支えた地方官衙〜弥勒寺遺跡群 田中弘志
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藤原仲麻呂がつくった壮麗な国庁・近江国府 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
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北の縄文人の祭儀場〜キウス周堤墓群 大谷敏三

 新千歳空港から車で30分の位置にある縄文時代の巨大な墓地の跡地。それがキウス周堤墓群である。
 縄文時代には大規模な土木工事は不可能であるという「定説」を覆した遺跡で、もっとも大きなものは200人が周りを取り囲んで写真にうつれるくらいのサイズがある。
 ……あんな写真を撮る意味はいまいち不明だが、大きな木の写真と同じようなイメージでみればいいのだろう。発掘に従事した人たちの記念撮影的な面もあるのだろうな。

 著者は縄文時代の円形遺跡や他の周堤墓について、次々と紹介していく。そして、キウス周堤墓群に戻ってきたときには、あまり紙数が残っていなかった。
 他の遺跡を紹介した流れも、考察に深くコミットしているとは、いまいち感じられず、遺跡を学ぶシリーズにしては物足りないところがあった。
 大風呂敷を広げなくても狭く深く掘りまくってくれれば「らしさ」があるのだけどなぁ。ちゃんと読めていないだけだったら、もうしわけない。

 共同墓地の形ながら大型遺跡の造営を可能にした当時の現地社会がどんな状況にあったのかは興味深い。なかば本能というか習慣的で、時間もたっぷり使ったからこそ、大きな遺跡をのこせたと考えるには、埋葬されている人数が問題になるってくるか。
 やはり、ある程度のリーダーシップは発揮されていたのだろうな。

 出土したヒスイが綺麗。新潟の糸魚川産というから交易網の広さにあらためて驚く。

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北の縄文人の祭儀場・キウス周堤墓群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」074)
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中世瀬戸内の港町〜草戸千軒町遺跡 鈴木康之

 福山市の芦戸川の中州から発見された中世の港町、草戸千軒町遺跡。伝説的には一度の洪水で滅んだとされる中世ににぎわいをみせた町の実像に迫る。
 河川整備で中州が削られてしまって、完全に失われた部分があることが残念である。まぁ、記録保存されている遺跡は、このシリーズには珍しくないのだが……。

 時代が比較的に新しいだけに木材の遺物が多いと思っていたら、主な原因は立地のおかげで水によって空気から守られていたことらしい。そういえば、もっと古い遺跡でも地下水のあるところなら木材が残っている場合があったなぁ。
 東京の城の話で、戸は津に通じると言われていたが、草「戸」千軒町でも、同じことが名前の変遷からも理解することができた。昔の人は字が読めない人も多いから、漢字の感覚がけっこういい加減だったのね。

 その反面で地方の商人たちが文字を使いこなし、京都発祥の先進的文化に接触していたことも、草戸千軒町遺跡は教えてくれる。たしかに農業中心の中世観から脱却するのに大きな存在である。

 ところで水野勝成のおかげで福山がなにもない場所から栄えたとする宣伝工作は、いとこが江戸でやった宣伝工作とまったく同じですね……三河武士はワンパターンだなぁ。

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東京下町に眠る戦国の城〜葛西城 谷口榮
大友宗麟の戦国都市〜豊後府内 玉永光洋・坂本嘉弘

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中世瀬戸内の港町・草戸千軒町遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
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よみがえる大王墓〜今城塚古墳 森田克行

 真の継体天皇陵との下馬評も高い、摂津の今城塚古墳。伏見地震で大ダメージを受けていたことが判明するが、丹念な復元作業によって豊かな埴輪群をともなっていたことが徐々に明かされていく。
 日本の兵馬俑とは凄い表現を思いついたものだ。写実性で比較してしまうと首を捻るが、抽象的ゆえに芸術性を醸し出しているという視点からみると、おもしろい造形ぞろいではある。

 著者によれば今城塚古墳に後から追加された張り出し部で埴輪が再現していたのは、殯の風景とのこと。
 本物の殯も後継者を確定するために行われたというので、張り出し部の再現は二重に埋葬者よりも後継者のためのものだったのかもしれない。

 継体天皇は権力を掌握した経緯に謎の多い人物だが、著者は汎淀川流域の勢力に、彼の権力基盤をもとめる。また、東の尾張氏が一枚噛んでいるという。
 埴輪や副葬品の系統から、そのあたりが読みとれるのも興味深い点である。もっとも、今城塚古墳が継体天皇陵であると確定しなければ、不安定な状態は続くのだが……自然現象の地震がなければ、とは流石に言いづらい。
 それでも、長年、今城塚古墳を敬い、維持してきた地域住民のおかげで何とか指定をえられるまで形を保ってこれたのだ。信心は考古学の味方にも敵にもなるなぁ。

関連書評
鉄剣銘一一五文字の謎に迫る〜埼玉古墳群 高橋一夫:こちらの埼玉古墳群でも張り出し部の埴輪群が存在するが、こちらは殯の風景ではないと著者が考えている

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よみがえる大王墓・今城塚古墳 (シリーズ「遺跡を学ぶ」077)
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東日本最大級の埴輪工房〜生出塚埴輪窯 高田大輔

 三体の大きな全身人物像が発見され、そこに武人の全身像もくわわって、東日本でも最大級の埴輪生産地であることが判明した生出塚埴輪窯。
 その作品群や周辺古墳との関わりを考察した一冊。

 埴輪の写真を1ページを大きく使って掲載しており、著者の読者にじっくり見てもらいたい、できれば実物をみてもらいたい思いが伝わってくる。
 振り分け髪の人物の二体目が顔を傾けている点が気になるなぁ。

 生出塚埴輪窯はシリーズの他の本でも取り上げられている埼玉古墳群と、非常に深い関係があったことが証明されていて、深い物語性を感じてしまった。
 武蔵国造一族と、埴輪職人を題材にした面白い歴史小説は存在しえると思う。マニアックだが。

 埴輪が工業製品であり、生出塚埴輪窯でいろいろな工夫がされていたことが分かるのも興味深かった。
 古いほど精巧で、新しいほど粗雑で抽象的になるという例を円筒埴輪を例にして見ることができた。

 どうやら職人の中には重要な埴輪を多数手がける中心的な人物がいたみたいだが、彼は自分の姿を埴輪に焼くことはなかったのだろうか。

東日本最大級の埴輪工房・生出塚埴輪窯 (シリーズ「遺跡を学ぶ」073)
東日本最大級の埴輪工房・生出塚埴輪窯 (シリーズ「遺跡を学ぶ」073)
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信州の縄文早期の世界〜栃原岩陰遺跡 藤森英二

 縄文王国長野で発見された大量の縄文人人骨。通常では骨が滅多に残らない酸性土壌の日本で、縄文時代の人骨が残されていた背景には、その場で焚かれた焚き火による大量の灰が関係していた。

 ……煙たくなかったんだろうか?岩陰遺跡の地形を知って、焚き火のことを考えるとそんな疑問が起きる。
 やはり経験から洞窟内の気流を把握していて、適切な場所で焚き火をしたのかもしれない。各時代のモデルを作って、あるいは現地で、気流を計測してみたら面白い気がする。

 最大の発見物である人骨から分かることに縄文人は華奢という意外な事実がある。時代をさかのぼるほど逞しい肉体をしているイメージに反して、現代人よりも上半身がほっそりしているらしい。
 代わりに足腰は非常に強くて、長距離移動生活を想像させるようだ。
 考えてみれば栄養が安定してとれる環境に恵まれていないので、もっとも重要な器官にエネルギーが集中するのも自然なことだ。

 他にも驚くほど大量の遺物が残されており、研究を続けていくべき立場にある著者はうれしい悲鳴をあげている。幸いにも他の研究者にとっても魅力的な遺跡らしく、いろいろと専門家が分析の手をさしのべている。

 博物館で行っている体験学習を想像させる写真や文章もよかった。

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信州の縄文早期の世界・栃原岩陰遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」078)
信州の縄文早期の世界・栃原岩陰遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」078)
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遠の朝廷〜太宰府 杉原敏之

 西海道支配の中心として造られた太宰府。その大規模で複合的な遺跡の姿を限られた紙面で描いた一冊。
 それぞれで別の本にできるほど情報が多い遺跡なので、まとめるのに苦労している印象を受ける。
 軍事施設としての太宰府周辺について、けっこう詳しく説明されているのが良かった。

 水城の外濠には未だに解けない謎があるようで……水を止めるために堤を連続で造ったら、そこが攻め込まれるときの弱点になってしまいそう。
 そこまでして水を張るよりも、空堀にした方が防御力が高いのでは?施設の維持コストにも関わる問題なのかなぁ。

 百済の首都と、太宰府の間に防御機構の共通点がみられるのも面白かった。しかし、一度失敗した方法で守ろうとしていたとも言えるわけで、効果としてはどうだったのやら。実際に戦いが起こっていないので何とも言えないな。
 少なくとも百済からの渡来人の方が実戦経験が豊富だったのは事実だ。

 太宰府では今でも発掘が行われ、新事実が明らかになっている。これからも新鮮な歴史的視点を提供してほしいものだ。

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遠の朝廷・大宰府 (シリーズ「遺跡を学ぶ」076)
遠の朝廷・大宰府 (シリーズ「遺跡を学ぶ」076)
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鉄剣銘一一五文字の謎に迫る〜埼玉古墳群 高橋一夫

 稲荷山古墳から出土した鉄剣には金で115文字にもなる銘文が記されていた。このような鉄剣を副葬された埼玉古墳群の造営者たちは、どんな勢力であったのか。

 タイトルが縦書きなので、25文字に読めてしまって、本文を読むまで115文字とは気付かなかった。この鉄剣銘については有名なので、知っていたはずなのに……。
 鉄は青銅にくらべても腐食しやすいが、さすがに金はぴかぴかである。象嵌の効果を感じる。

 大量の古墳を一カ所にまとめて作り上げた武蔵国造の一族は、さらに二系統にわかれると、著者は主張している。異例な規模だが、前方後円墳より格が落ちるとされる円墳の丸墓山古墳など、造られた経緯が興味深い。
 張り出しと言われる部分でおこなわれていた儀式も気になる。人がやることを、素直に埴輪が再現していたと考えてよいのだろうか。

 また古墳の傾斜度から人の接近経路が考察されている。角の部分は構造的にも必然的に傾斜が緩くなりがちだと思うが、それぞれの古墳で違いがあっておもしろかった。
 あと、石田三成の忍城攻めが地味に関係していた。

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鉄剣銘一一五文字の謎に迫る・埼玉古墳群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
鉄剣銘一一五文字の謎に迫る・埼玉古墳群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
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